浄土真宗とは何か?と聞かれて、一言でどう答えれば良いのか考えてみました。
「お念仏を称えて南無阿弥陀仏を頂く教え」ということになるでしょうか?
これは、現在私が理解していることを書いたものなので、間違いもあるかもしれません。そのつもりでよろしくお願いします。そこは違うんじゃないか、ということがあれば、教えていただけたら有難いです。
「信心正因 称名報恩」という言葉がありますように、弥陀の救いは信心で決まるものであり、称名(念仏)はご恩報謝の行であります。
だから、今まで、救われる前(信前)の人は念仏を称えてもあまり意味がないように思っていました。
ところが、先日、次のご和讃を教えて頂き、その思いが変わりました。
信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(正像末和讃)
救われる前の人にも親鸞聖人はお念仏を勧められているのです。詳しいことは
こちらにも書かれています。
その深いみ心は分かりませんが、称える我々の心がどうであれ、称えさせていただく
「南無阿弥陀仏」の六字は尊いものには変わりない、と受け止めさせて頂いております。
一口に「念仏」といっても、称える心によって「自力の念仏」と「他力の念仏」に分かれますが、"「如来大悲の恩を知り」称名念仏はげむべし"とあるように、「私」がどうなのか、ではなく、如来様に心を向けるのがポイントなのではないかと思いました。「私が」助かりたいのではなく、「阿弥陀様が」助けてやりたいと大悲の涙を流しておられる。これが他力廻向の教えなのではないでしょうか。主語を誰にするかで向きが大きく変わってくるのです。
『死はかねて生のうちにあり』(豊島學由著 自照社出版刊 平成20年)という本にはこうあります。
「信ずる一つで救われる」という表現をよく耳にしますが、これを聞く側にとりましては、信じたら救われるというふうに、信じるのはこちらのすることのように誤りやすい表現であります。
このような立場に立つとどうなるかを考えてみますと、「私は如来の救いを信じております」となって、絶対間違いないと思い込んだ状態なのであります。
(中略)
蓮如上人が「行者のをこすところの信心にあらず」といわれたのは、こちらが信ずることではないと言われたものと窺います。
小山法城和上のご生前中、機会あるごとに布教の心得をお教え頂いたのでありますが、和上のいつもおっしゃっることは「お同行は寝かせておいてもいいから、お名号を寝かせておくようなご法話はするなよ」のご注意でした。お同行に、よく聞いたら、信じたらと、聞き手を力ませるような話は、たいていお名号を向こうに置いたままおいわれと称して説明や解説に力を入れてお名号のご讃嘆を忘れているからだよと言われました。
難病で意識不明の赤ん坊の枕元で、「○○ちゃん。お母さんだよ。ここから離れず、ずっと傍にいるからね」と母親が寝ずの看病をしていたとします(父親の場合も同じ)。その思いが通じたのか、ある日、赤ちゃんの意識が戻って「お母さん!」と言ったとしたら、この「お母さん!」の言葉は誰が言わせたものでしょうか? 赤ちゃんも辛かったでしょうが、同じく辛い思いをしてきた人はいなかったでしょうか?
快復した子供は無邪気に走り回りますが、それは偏に、寝ずの看病があってのことです。しかし、そんなことはすぐに忘れてしまうのが子供です。先日、ある広告で「親は子に、いつも片思い」というコピーを見て申し訳ない気持ちになりましたが、まさに「親の心、子知らず」です。
子どもが知らないのは受けた恩だけではありません。親が何を望んでいるかも分かりません。親は子に「お父さん」「お母さん」と呼ばれることが大変嬉しいのです。それは闘病中でも同じです。そして勿論、最も嬉しいのは、病気が治った時で、「お父さん、お母さん、ありがとう!」と言われた時、それまでの苦労がすべて報われるのです。
「南無阿弥陀仏」とは、喩えるなら、そんな、片時も忘れずに親から子にかけられる「呼び声」のようなもだと聞いたことがあります。
救われる前(信前)の念仏を「自力の念仏」と言います。そして、浄土真宗では「自力を捨てて他力(阿弥陀仏の本願力)に帰せよ」と教えられます。しかし、たとえ信前であっても、私の口は自力・我執一杯ですが、そこから出てくるお念仏には、尊い功徳が収まっているのです。「半自力半他力」という言葉もあります。
これは、よくよく考えてみると不思議なことで、真実の心をもたない者が、真実に染まった
南無阿弥陀仏を称えるというのは、根のないところから花が咲くようなものです。親鸞聖人のお言葉に
「無根の信」というのがありますが、本当に不思議なことです。
「念仏はご恩報謝で称えさせて頂くものであり、それによって助かるのではないから、信前の人には枝葉末節」と思っていましたが、何故、法然上人が「念仏為本」と仰せになったのか。そして、親鸞聖人もまた、その教えを無我に相承されたのか、分かったような気がします。
分かりにくい文章ですみません。
本当ならば、「病気」とは何か、「救われる」とはどういうことかを書かねばならないと思うのですが、長くなりますのでまたいつか。
最後に、味わわせていただきます。
信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(正像末和讃)
南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏、、、


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